母にありがとう、父にさよなら、そして全ての子どもたちにおめでとう。「おおかみこどもの雨と雪」
映画の上映が終った時、僕はずっと泣いていました。しばらく涙が止まらなかったです。
ある大学に通う女子大生、花は偶然出会ったおおかみおとこと恋に落ちる。2人の "おおかみこども" 雪と雨を授かった幸せも長くは続かず、不慮の事故で父親は亡くなってしまう。都会を追われ逃げるように田舎で暮らすことになった1人の母親と2人のおおかみこどもの13年間の物語。
「おおかみこどもの雨と雪」は、細田監督の前2作品(時をかける少女、サマーウォーズ)とは明確にスタンスの違う映画です。前2作はあくまでエンターテイメント作品ですし、もちろんテーマは含まれているのですがやはりエンターテイメント作として成功した作品です。細田監督はどう作れば観客を盛り上げられるか、興奮させることができるか、とてもよくわかっている人です。しかし、そんな人が敢えてその能力を使わず作った作品がこの「おおかみこどもの雨と雪」です。
人はイベントしか記憶できないものです。そのイベントを通過することで人は生きてきた時間を区切っていく。七五三であったり学校の入学式であったり結婚式だったり…。だからCam with meはあんなに短い内容でも感動できる。でも本当の人生はイベントだけで作られているものではなく。日々の何気ない、記憶すらされないかもしれない出来事の積み重ねでできている。監督が描きたかったのはそんな日常なのでしょう。ほとんど盛り上がりどころを作らない構成は監督の意思の現れでしょう。
人でもあり、狼でもある雪と雨は様々な意味で「重ね合わされた」存在です。人にもなれる、狼にもなれること、これが子どもたちに秘められた可能性を表現しているものです。子どもは柔軟です。しかし世界で生きることは柔軟ではない。成長する、大人になるということは可能性という曖昧な原石を砕き磨き、一つの結晶を取り出す行為に他なりません。子どもたちが人として生きること、狼として生きることを考えることが、彼らが大人になることの通過儀礼です。そしてこの映画はそれを見守る母親の優しい目線で描かれているのです。子どもたちの成長を感じさせる場面で、設定の年齢よりも大人びた雰囲気で子どもたちの表情が描かれるのは、アニメだからできる表現でもあります。
雪の成長は自分の存在が許される場所を、自分の力で作ることです。社会の中で自分が受け入れるのを待つことではありません。自分が許されるのと同じように自分も他者を許すこと、そして自分を見失わないこと。娘は母親の写し鏡のようで、やはり別の、自分なりの生き方を社会の中で見つけるのです。
その一方で僕は雨の行動に自分を重ね合わせざるを得ませんでした。男の子は何か熱中できることを見つけてその世界に旅立っていく。台詞はあてがわれていませんでしたが、山の自然について熱中気味に母親に語る雨の姿。母に何も言わず旅立つ姿。そして、まだ子どもだからと雨を守ろうとする花の姿。危険な場所まで子どもを追って突き進んでしまう母親の逞しさ。母親から見ると自分もそういうことをしていたのかと身につまされるところです。自己弁護するつもりはないのですが、やはり男の子とはそういうものでしょうし、それを許し見守る母の優しさというのは偉大なのですね。
クライマックスはありますがしかしそれも日常の延長である、というのはこの映画が見つけた新しい地点なのでしょう。強い刺激がなければ映画は成り立たないのかと言えば、確かにそれは真であるかもしれない、それでもそれを認めたら表現の敗北でしょう。それでも涙があふれて止まらないのは、豊かに描かれる大自然の背景のように、強く優しい母の愛情をスクリーンを通して見せてくれたからに他ならないと思います。この映画を見て流れる涙に理由なんてないのです。
追記(2012/0723):
山場になるようなイベントが描かれていない、というような書き方をしましたが、実はちゃんと冠婚葬祭が擬似的に描かれてはいるんです。花が "彼" の亡がらと対面すると同時に "葬式" が行われているわけですし、彼に花を手向ける代わりのバーベキューなわけです。また雪の告白は即ち結婚(というかその前段階)を擬似的に表現をしているわけでその結果があのエピローグなわけですよね。描いているけど日常に紛れている、というのがこの映画のミソの部分だと思います。