映画「告白」 - 人は自分にすら嘘をつき、人は片面しか見ることができず、人は平気で正義を下す。

原作小説未読、予備情報ほぼ0のまま鑑賞。
とある中学校の教室から物語は始まる。ホームルーム中だというのに教師に構わず席を立ち、大声で喋り、ものを投げ、携帯を使い、大騒ぎをする生徒たち。学級崩壊。使い古されすぎてあまりにもチープになってしまった言葉が頭を過る。猿じゃあるまいし。異常だ、このクラスは。しかし担任の女性教師である森口はそれを止めるでもない。教師なのに。教師なのか。教師って。そして彼女はただ淡々と「告白」を始める。自分があと1ヶ月で教職を離れること。自分には娘がいたこと。娘は週に一度学校で自分の仕事の終わりを待っていたこと。その娘がある日プールの中で死体として発見されたこと。娘が死んだのは事故ではなく誰かに殺されたこと。そして、娘を殺した犯人はこのクラスの中にいること。
その後も生徒やその親といった関係者からの告白が続き、各々の視点からこの事件の全貌が浮かび上がっていく。
この映画はそれぞれの告白を通して「視差」を描いている。被害者の親、加害者、加害者の親、加害者の同級生。それぞれの視点によって異なる「事実」。ロールシャッハ・テストの結果は性格や心情によって大きく異なるだろうが、この告白の場合問題なのは各自が自分の内にも、外にも嘘をついていることで事実は更に歪んでいく。「真実」はたった一つしかないのに。いや、本当にたった一つしかないのだろうか。
この映画の映像はとても美しい。さすが中島哲也監督だけあって、まるでCMのような美しいシーンが連続する。中学生も、教室も、グラウンドも、私たちが知っているものなのにまるで。嘘みたいな世界。私たちがよく知る世界にも、見方を変えるだけでこんなに美しい世界がある…我々は常日頃物事の片面しか見ておらず、知っているようで知らない世界がこの世界に存在すること暗示しているかのようだ。
今作品の登場人物は皆異常である。少なくともそのように見える。自らの苦境から逃れるために人を殺す加害者。加害者を悪と見なし徹底的にいじめる生徒たち。加害者の親は我が子の正しさを確信し、被害者の親は心に復讐の火を灯す。とてもじゃないがまともではない。普通ではない。しかし普通とはなんだ。普通ではないと言う以上は、普通が、正しい世界がどこかに存在するということだろう。では正しい世界は誰が決めるのか。誰も決められない。各々の告白の中では誰もが自分の正しさを主張する。自らが正義であると。もし全てが見通せる完全に中立な存在があったとしたら(神様のような)、彼らの正義を認めることはできるのだろうか。おそらくできない。お互いの主張は中和され、正義も悪もなくなってしまう。人は全てが見えないからこそ、正義を振るうことができる。
例えばブログが炎上したとき。捕まえることも裁くこともできない人間が義憤にかられてブログ主を攻撃する。そのブログを攻撃し、炎上させた "彼ら" はことのすべてを見ていたのだろうか。全てを知った上で攻撃しているのだろうか。会ったことも見たこともない人間に躊躇なく正義の鉄槌を下せてしまうのは、「知らないから」じゃないのか。むしろ知れば知るほど判断が鈍っていく。アンパンマンがバイキンマンの気持ちを知ってもなお殴れるとは思えない。それでも正義を為そうとするならば…自分の向こう側に広がる世界に対して、見て見ぬフリをするしかない。他人に、自分に嘘をついてでも。
被害者の母である森口は一度がっくりと膝をつき、気づいてしまう。己がかざそうとしてる正義の脆さ、無意味さに。それは彼女が正常な人間であるという証であり、しかしそれでもなお目をつぶり己が正義を貫こうとする彼女もまた正常である。
なーんてね